2000年 夏 (後編)

5.思い出雑感

(4)応援団に褒められた唯一の経験

審判は100%正確に判定したところで、結果が不利な方からは文句を言われます。
まして応援団からは罵声を浴びこそすれ、誉められるという事はありません。
私の長い経験でも、誉められたのは一度だけです。

富山県の新湊(しんみなと)は漁業の町で、野球の応援もアルプススタンドだけでは物足りず、ダッグアウトの近くで大漁旗を振り、
メガホンでがなり立てるという凄まじいものです。

その新湊高校対拓大紅陵(千葉)の球審をしました(10年位前)。
拓大は優勝候補の下馬評どおり強力で、5回までで4対0でリードしていました。
聞こえてくるのは新湊応援団の"審判、しっかり見ろ"という罵声ばかりです。
ところが6回に新湊が一挙6点を取り、結果は7対5で快勝しました。
応援団いわく"審判ご苦労さん。ようやった!"。

まあ、こんなものですが、こうした応援団の気ままさから得た人生訓があります。

「自分がどんなに正しいと思って判定しても、必ず批判はある。それはどうしようもない事だ。
こうしたどうしようもない事に一喜一憂しないように心を鍛えよう」 

― 平気になるまでかなりの年月がかかりましたが、応援団のお陰で大きな人生勉強になったと思っています。


(5)最近の指導者について思うこと

最近"選手の自主性を尊重しています"という発言が多くの指導者から聞かれます。
かつての行き過ぎた管理野球・精神野球の反省から、こうした指導法に変化しつつあるのでしょう。
指導者が自分のやり方に固執するのはよい事ではなく、生徒の意見も取り入れて行くのを否定するつもりは毛頭ありません。

しかし、時として自らの指導力のなさ、選手に妥協・迎合することを「自主性の尊重」という言葉に置き換えているのではないかと思う事があります。
怠慢なプレー、相手を殊更にけなす品のない野次、自分のミスなのにあたかも審判がミスしたように振舞う態度、ダラダラとした試合運び・・・・。
当然注意すべきなのに、それをしない(出来ない)のです。

やはり指導者は研鑽に勤め、選手を叱責・指導するだけの力量を備えてほしいと思います。
立派な指導者は、選手の自主性を尊重しながらも自ら先頭に立ち、指導するべきところはきちっと指導しておられるように思います。

今年の決勝戦、智弁和歌山の高嶋監督も東海大浦安の森下監督も"選手の自主性を尊重しています"と話しておられましたが、
試合中バントをミスした選手には厳しい叱責がとびましたし、ベンチでも最前列に立って指揮しておられたのが印象的でした。


(6)勝者を気持ちよく賞賛できる条件

私は戦い終わった挨拶のとき、負けたチームがどういう表情をしているかに関心を持って見てきました。

決勝戦で負けたとはいえ、東海大浦安の選手は実にいい笑顔をしていました。
中でも主将で投手であった浜名君は、浦安が勝ったのではないかと思うほどの爽やかな顔をしていました。

力を出し切った投手、自分のしたことに満足感と誇りを持った選手だけが、実に爽やかに相手の勝利を称えることが出来るのです。

"一生けん命にやる(やった)とはこういう事だ"、高校生は随所で私達大人に人生を教えてくれます。
こうした場面に出会えた時が審判をしていて最高の喜びを感じる時です。

思い返せば、審判に対する自分の気持ちが随分変化してきたのに気付きます。

恐ろしくて、ただひたすら"難しいプレーは起きないでくれ"と祈り続けた最初の数年間。
自分の判定で勝負が決まるような、スリリングな場面が来ないかと粋がった時もありました。
審判は特等席で試合を楽しめばいいんだと、少し傍観者的になったこともありました(どうしたらリラックス出来るかという事のために考えた方法ですが・・・)。

しかし、いつの頃からか、高校生、大学生からいろいろ教えてもらっているのだと気づき、選手の汗を浴び、選手の息遣いが聞けるようになりました。


(7)若い読者に

ここ数年、小・中・高の先生を対象に講演をする機会が多いのですが、先生方から"最近は自分のしたいことが見付からず悩んでいる生徒が多い"
という話がよく出ます。

それは私が「審判をしていると何もかも忘れてしまします。損得抜きにしている事に夢中になれる事は幸せです。」という話をするので、
「どうしたらそういうものが見付かるのでしょう」という問いかけであろうかと思います。

今でこそ審判は天職であったかの如く話していますが、私は審判になりたくてなった訳でもなく、始めから面白いと思った訳でもありません。
私が審判になったのは全く偶然のことです(東京六大学では各校野球部O・Bから3名ずつ審判を出すことが義務付けられていますが、
私が卒業したときに、東大の審判が転勤になり、1人補充する必要があったので、たまたま私が要請されたというのが審判になった契機です)。

そして、そんなに面白いとも感じずに審判を続けているうちに、興味が出てきたというのが真相です。

このように、自分が好きになれるもの、夢中になれるものというのは、どこに転がっているか分からないものです。
頭の中でいろいろ考えずに、(いやでない限り)とにかく始めてみる。
そして気軽な気持ちで続けてみる(完璧主義は挫折の最大の原因です。計画通りやれなくても、自分で"意志が弱い"というように諦めてしまわない。
自分の怠慢さに寛大になることが大切です)。

こんな事が好きなものと出会える秘訣かもしれません。


6.今後のこと

最後の審判を終わったときにどんな気持ちになるだろうと思っていたのですが、割と平静でした。
1つには、社会人野球、東京六大学野球の審判は今少し続けるということがありました。
また、日本高野連から「今後も春・夏には甲子園に来て、審判幹事として後輩の指導をして下さい」と言われていたので、
甲子園とすっかり別れてしまう訳ではないという気持ちが、心を落ち着かせてくれたのだと思います。

新聞で引退のことを読まれた多くの方からねぎらいの言葉をいただく一方、少なからぬ"甲子園だより"ファン(?)から
「是非、本にして出版してみてはどうですか」と励まされました。

私としては、仕事もしないで甲子園に行ってしまう事に対する依頼者の方へのお詫び、後輩審判への審判の在り方に対する問いかけ、
恩師、友人、親戚などへの近況報告といったつもりで書き続けた"たより"でしたが、これを書くことによって、審判に対する考えが深まり、
球児を見る目が敏感になった事は間違いありません。

今は山積みしている仕事の処理に忙殺されていますが、余裕が出来たら何か形で記録を残してみようかなと考えています。

審判幹事という立場から、来年以降も甲子園の状況をお知らせしようとは思っていますが、
現役としての"たより"は今回で終章とさせていただきます。

永い間のお励ましとご愛読、ありがとうございました。

平成12年9月